ユダヤ系富裕層の乗客との出会い

マーケットのカギを握るユダヤ系富裕層

アメリカのユダヤ系人口は、500 万人で、アメリカの総人口 に占める人口比率 が、2%前後。現在 650 万人であったが、その人口比率からの考えられないほどの影響力をもち、特にアメリカ の経済や政治の 4 分の 1 を左右するといわれていたのです。


※注:イスラエルには、550 万人、口シア、1900 年で 400 万人、現在 100 万 人と言われています。

彼らの経済力、社会組織力は、アメリカのマイノリティー 社会でも、際立っていたのたです。この傾向は、旅行業界においても見られました。

旅行業界においては、彼らの先祖は移民枠のない頃に、 アメリカに渡り、ロシアに加えドイツ・ポーランドやオーストリアなどの中欧系のユダヤ人を親に持つ第 2 世代が多かったのです。

彼らの多くは、親の世代に、ニューヨークなど東岸の都市や繊維産業に代表される都市に、人口が集中していたのです。

しかし戦後、アメリカの経済が大きく変容し、南北戦争後の繊維産業から、第 2 次世界大戦前後には、鉄鋼産業・自動車産業・軍需産業への産業基盤の拡大したのです。

さらに新しいサービス産業なども加わり、アメリカ中西部の大都市は隆盛を極めていました。

これによって新しい仕事を求めて、東岸に点在していたユダヤ系アメリカ人も、この新しいアメリカ経済の中核地五大湖工業地帯にあるシカゴなど主要都市に集団的に移動し、移住する傾向が見られたのです。

この時代、すなわち、親の世代に新しい仕事を求めて中西部に移住してきた世代 の第 2 世代が、 中西部の都市部で、大きな人口の比較的豊かな人たちの)瘤を形成しつつ有ったが、彼ら自身は、 中西部生まれの海を知らない世代でした。

当時、北欧系やドイツ系の移民の多くは、アメリカ中西部の都市部やアメリカ西海岸における新興都市、ロサンゼルスやサンフランシスコの住宅建材供給基地としての林業などが主な産業で生計をしていました。

その彼らの居住地ミネソタ州やミシガン州、ウィスコンシン州での厳しい冬の寒さを避け、南に彼らの居場所を求めていたのです。

このようなヨーロッパ系移民やユダヤ人社会の周りには、旧ヨーロッパ祖国への里帰り便の手配などが旅行会社の仕事の関係で、零細旅行会社が多かったのです。

例えば、ユダヤ系社会の大きいシカゴ近辺には、1973 年よりニューヨーク〜ワルシャワ便を開設したポーランドの航空会社LOTと提携。

ポーランド系移民を対象とした里帰り便専門の会社が多くあったが、彼らも、彼らが抱えるユダヤ系客層の旅行に対する変化を嗅ぎ取っていたのです。

彼らのユダヤ系顧客は、厳寒の冬を避け、キューバなど南の島々に快楽を求めるスノー・バード族が多数存在していたのです。

アメリカの航空業界最大手、パンアメリカン航空(現在のユナイテッド航空)等の国際線の急激な発達と重なり、ポーランドの冬に似た内陸のシカゴからの逃避を求め、新しい太陽を求めた旅の形に憧れていたので、旅行会社もセールスの方向を転換せざるを得なかったのです。

この様な客層には、彼ら特有のシナゴーグ等の集会や互助共同体的な生活パター ンを介して、キ ューバ観光などに、更なる注目が集まってい増田。

カストロ政権の出現で行き先が無くなり、その多くは、自動車の普及と共に、フロリダ州のマイアミなどや、急激な娯楽性を高め、滞在型の観光都市としての地位を固めつつあったラスベガスへと人は流れたのです。

その後、カストロ政権発足から数十年の時を経て、 再びカリブ海にはクルーズ客船が就航し始めたのです。

当然彼らも主要客層として、再びカリブ海へ繰り出しつつありました。

当時、提携先のビバリーヒルズにあるクルーズに特化したユダヤ系旅行者を扱っていた旅行会社のオーナーと対談し、 彼らが「海」に対する 願望が強いのかと聞いた事がありました。

答えは単純。「多くの客が中・東欧からの出身者で海を見たことが無い」と言うものでした。

この巨大な大陸の中西部では、空路網の発展なくしては、アメリカの旅行業界は、発展し得なかったと思われるのです。

この深層心理が、中西部の季節移動型のスノー・バード族を支えていたのです。

ポーランド系ユダヤ人を送り出す旅行会社としては、航空産業の規制緩和などの動きで、料金体系が複雑化し、減収になりつつあったポーランドへの里帰りの飛行機旅行より、高単価で高収入のラグジュアリークラスのクルーズ旅行を扱う傾向が顕著になった。

しかも、個人的なネ ットワークで、営業を行うスタイルでありながら、彼ら社会の地縁・血縁などやシナゴークといった特殊なネットワークや交流の機会などもあり、人的な繋がりが深く、堅く高額商品を扱うニッチマーケットで、頭角を現してきた。

ラグジュアリークルーズのリピーターとして、繰り返し乗船する傾向が強いことも彼らには好都合であった。

クルーズ会社から見て彼らは重要な存在であり、船上での「体験価値」を売るクルーズ客船にとっては貴重なマーケットでした。

帝政ロシアや中・東欧から逃れてきたユダヤ人作曲家たちは、戦前、戦後のアメリカの音楽界や映画界を支えてきたのです。

一例として、アーヴィング・バーリン「イースター・ パレード」「ホワイト・クリスマス」「ゴッド・ブレス・アメリカ」、

ジョージ・ガー シュウィン「ラプソディ・イン・パリ」 「パリのアメリカ人」

ロジャース & ハマーシュタイン「回転木馬」「南太平洋」「王様と私」「サウンド・オブ・ミュージック」などなど、、、。

これらはクルーズ旅行者にも大きな影響を与え、創業当時に就航していた「クリスタル・ ハーモニー」は、彼らの音楽などを中心とした舞台構成を約1年間演出していたのです。

その演出は大好評。

その後3〜4年は、彼らのショーはいつも満員御礼。
スタンデング・オベーションでした。

ユダヤ系ネットワークという特殊な販路

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クルーズ乗船後はそのままデッキでランチタイム

当時の「ロイヤル・バイキング・サン」(乗客定員:850人名)船上において、毎週金曜日に定期的に開催されるラビ主催の宗教的会合には、150人前後の船客が参加していたといわれていたのです。

このような類の乗船客の販路を探る事となりました。

ロサンゼルスの某ユダヤ系旅行会社は、当時「ロイヤル・バイキング・クルーズ」に、年間 200 〜250人を送り込んでい増田。

その集客の仕組みは、毎週恒例のシナゴークという集会所を中心とした宗教的 会合や頻繁にユダヤ人が主催する集まる席でのクルーズに対する自己体験、彼らの血縁的交流・会話などを通しての誘致活動などにあったのです。

また、ユダヤ人専門のゴルフクラブでの「クルーズの夕べ」等のイベントを積極的に頻繁に開催し、クルーズの魅力を語ることも忘れなかった。

ラグジュアリー・クルーズ客船の集客には「船上での体験」の評価が、大きな動機付けになっており、そのためには、対面誘客活動や彼らの地縁血縁色の強い社交クラブ活動においての口コミによる誘いが 非常に大きな意味合いがあったのです。

情報の伝達力が、充分発揮されるという意味では「新しいクルー ズ会社」の進出と言う情報発信をしなければならない。アメリカのラグジュアリークルーズマーケットにおいて、極めて重要なマ ーケットでした。

こうしたユダヤ系旅行会社が、全米に散らばっている零細旅行会社に発信することがラグジュアリークルーズマーケットの拡大に繋がっていくのです。

このようなユダヤ人社会の零細旅行会社は、特に中西部の中小都市や西海岸のサンフランシスコやロサンゼルス、東海岸のニューヨークなどに、顕著であったのです。

ユダヤ人社会マーケットの把握は、統計なども余りなく、極めて難しいものでした。

しかし、 これらのマーケットの多くは、全米のユダヤ系政治家の地盤と奇妙に一致していたのです。

同じユダヤ人社会でも、第 1 次世界大戦時代からの帝政ロシア下の中・東欧を中心としたアシュケナジー系ユダヤ人社会や、アメリカで出生した子供世代、そしてホロコーストを経験した後の世代や、1980年代後半のソビエト連邦崩壊後に急激に増え、イスラエルより迂回移民した当時の旧ソビエト圏出身ユダヤ系移民などが存在していたのです。

同じユダヤ系でも、それぞれの行動パターンは異なっていました。

近年移民して来た旧ロシア系ユダヤ系の人たちは、旧体制下での富もあり、行動も積極的であり今後のラグジュアリー・クルーズにおいても新しい影響を与えるものと思われたのです。

その他、ペルシャ系やアルメニア系ユダヤ人社会とスペインなど西欧系、メキシコなど中南米系 ユダヤ人社会の旅行観が違う事も新たな発見でした。

同じユダヤ系アメリカ人でも第 2 次世界大戦前から移住し、子孫は生まれも育ちも根っからのユダヤ人と戦後のヨーロッパの政情不安てによってアメリカに移住してきたユダヤ人とも、その考え方は異なっていたのです。

カリブ海旅行に対する考え方も、戦前から、長く東岸に定住しているユダヤ系アメリカ人は、保守的でそれほど熱狂的てではない傾向です。

経済の発達に伴い機会を求めて中西部に移住した第 2 世代は、カリブ海クルーズ指向が強いといわれる。

彼らの多くが、ポーランドを初め、中・東欧からのユダヤ系移民で、「太陽と海と青い空」に対する考え方が違うが故であると言われていました。

遥か昔18 世紀のゲーテの「イタリア紀行」や、昨今の北欧やドイツなどの富裕層が、地中海スペインや旧ユーゴスラビア、特にボスニア・ヘルツコビアなどの海岸に、冬の住処を求めると同じ心理かと思われていたのです。

ユダヤ人の客層にとって、そのサービス海域も重要で有ることが分かった。イスラエル寄港は多くのユダヤ系乗船客の強い希望であり夢でした。

またアメリカの南西部に旅行代理店を展開する、 スペインやフランス系出身のユダヤ人旅行会社のオーナーは、スペイン・南フランスなどの寄港を提案していたのです。

一方、当時のユダヤ系の旅行代理店から、日本を含めたアジアへ行きたいとの要望は、極めて少なかったのです。

つまりアジアは彼らにとって最も遠い、遥か彼方の観光地でした。

ここで彼らの日本社会との関係の疎遠さを感じたのです。

その後、1990 年代初めから、このような地方に根を張るユダヤ系の零細旅行会社が「ヴァーチェソロ」や「シグネチャートラベルネットワーク」等の主力コンソリデーターなどの出現で集約され、現在のラグジュアリークルーズ市場の約40%前後は、彼らによって握られるいると言われてました。

彼らの希望する旅行先は、特にイスラエルやフレンチ・リビエラなどは人気が高いのです。

1990年代の湾岸戦争やイラク戦争の頃には、彼らは過敏に反応し、結果として、地中海クルーズは、彼らから敬遠されたのです。

その代替寄港地として、アメリ カ国内クルーズであるアラスカや北欧や南太平洋クルーズが、人気を集めたのです。

ユダヤ人人口:総人口比の高い州TOP10

2020 年版 「アメリカユダヤ年鑑」によるアメリカ国内のユダヤ系アメリカ人の人口推移が以下のように記載されてました。

数字はあくまでも目安ですが、かなりの整合性があると思われます。

・1位 ニューヨーク州  1,618,320(人) 総人口比 8.4 %
・2位 カリフォルニア州 1,194,190(人)総人口比 3.3%
・3位 フロリダ州 653,435(人) 総人口比 3.7 %
・4位 ニュージャージー州 480,000(人)総人口比 5.5%
・5位 イリノイ州  278,810(人) 総人口比 2.2 %
・6位 マサチューセッツ州  275,030(人) 総人口比 4.3 %
・7位 メリーランド州  235,350(人) 総人口比 4.2 %
・8位 コネチカット州  111,830(人) 総人口比 3.2 %
・9位 ネバダ ユダヤ州  69,600(人) 総人口比 2.9 %
・10位 ワシントンD.C ユダヤ人口 28,000(人) 総人口比 5.1 %

このようにしてアメリカのクルーズマーケットとしては、彼らの存在はなくてはならないものであるということがこの統計で理解できるかと思われます。

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世界で通用するクルーズ会社を構築した日本企業

アメリカの規制緩和政策と日本

今から約50年前の1970 年代後半、当時の大統領カーター政権末期から1980 年代初期のレーガン政権下では、アメリカの運輸部門の規制緩和の嵐が吹き荒れていました。

アメリカ人の海外旅行の主な旅行先はヨーロッパに向いていたのです。しかし当時のドル安や、ローマ及びウイーン空港におけるテロ事件。チェルノブイリ 原発事故などで、ヨーロッパは大きなダメージを受けていたのです。

規制緩和政策の始まり、航空業界も含め旅行関連業界は厳しい時代でした。

またアメリカ国内では円高や日米貿易摩擦を回避するために、トヨタ自動車や本田技研が、アメリカの中西部に自動車工場を建設する大きな変化が差し迫っていたのです。

日本企業などのアメリカでの自営化に伴い、物流の幹線も変わりつつあった。日本からの物流が、従来の消費者マーケットであったニューヨークなど東海岸に加え、工場資材なども含めて、 中西部向けの荷動きが急増したために、輸送時間の短縮を掲げた企業が、アメリカ西海岸経由での輸送に踏み切ったのです。

そのため、日本からアメリカ向けのコンテナ船の配船を航行時間が短い西海岸をメインとし、五大湖工業地帯の拠点である中西部のシカゴや東海岸にニューヨークへの物資の内陸輸送は鉄道に委ねていたのです。

この時、日本郵船はアメリカの規制緩和に対して日本企業として迅速に対応したのです。その最大の案件は北米に大手自動車会社の現地生産体制が発表され、それに備えた物流網の構築が求められていたのです。

 アメリカ向けの貨物を扱う日本郵船としては、トヨタ自動車や本田技研などのメーカーの本社機構など実務部隊がロサンゼルスに拠点を構えていたこともありその内陸の輸送方法に関して、各企業との調整が不可欠であった。

これらの事業の展開の為に、ロサンゼルス港に隣接するカーソンで物流向けの土地買収を行ったのです。

このロサンゼルスの立地の優位性を見て、アメリカにおける倉庫業に進出の先駆けとして、大規模な物流倉庫などを建設することになったのです。

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日本郵船時代に建造された「クリスタル・シンフォニー」

客船事業復活のための市場調査

日本郵船本社では「氷川丸」以来の客船事業復活に水面化で動いてました。同社は客船事業といえば日本市場をターゲットと考えていたのです。

船旅といえば、日本ではフェリーなどの定期航路における輸送を目的とした客船を思い浮かべるのが一般的かと思われます。

第二次世界大戦までは、日本郵船や大阪商船など日本を基点にしたヨーロッパあるいは中国・北米などに客船の定期航路を持っていた。

この客船の多くは貨物も積める「貨客船」と言われるものでした。

当時は航空機が発達していなかったため、客船航路がメインの移動手段でした。 戦前の欧州や北米では。定期客船航路がある程度定着し、ヨーロッパと北米間の回航スピードを争うブルーリボン戦争に参入。

これらの多くは船客の輸送、特に欧米間の客船は移民などのアメリカへの送り込みが主な目的であった。すなわち、点と点を線で結ぶ「移民線」や「船旅」の領域を出ていなかった。

北大西洋で悲劇の沈没をした「タイタニック」も、新しい居住性を重視した客船ではあったが、それでもまだ定期船の発想でした。

実際私も30年前はクルーズはフェリーなどの定期客船とは一線を異なることは頭では理解していたのです。

しかし、実際に乗船してクルーズというものはこういうものだと肌で実感する必要があったのです。

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アジア最大級のカジュアルクルーズ「スーパースター・ヴァーゴ」

アメリカクルーズマーケットを目の当たりにする

私の場合、クルーズデビューはシンガポール発着でスタークルーズ社が運航していた「スーパースター・ヴァーゴ」でした。

日本のクルーズはお値段的にも「高嶺の花」でしたので、海外クルーズの方が安価だという情報を知ったのです。

3泊4日のショートクルーズでしたが、その船の最高ランクのスイートルームを2人で15万円で乗船することができたのです。

クルーズを経験したことのない私にとって「スーパースター・ヴァーゴ」は新世界でした。

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華やかな世界を繰り広げるカジュアルクルーズ

日本とは異なり、海外クルーズは客層が3段階に分かれていて、乗船した船はますマーケット対象の「カジュアルクルーズ」ということに気づくのです。

「やはり本場アメリカのクルーズを体験してみたい」と思い、カリブ海やアラスカ、そしてメキシカンリビエラのクルーズを一通り体験したのです。

クルーズ乗船路には必ず妻も同伴でした。

その大きな理由は男性ではチェックしきれないレストランでの食事、バー、キャビン、ヘアサロンなどのサービスについては繊細な女性の感性が求められるのでした。

その後、同じアメリカでもヨーロッパまで足を運んでクルーズを楽しむ人はカリブ海やアラスカクルーズを楽しむ客層とは異なることを知り、北欧から地中海クルーズ、さらに中東まで視察に行きました。

そして欧米で多くの事情通と情報交換を行い自身の試乗体験などをするうちに、 一つの方向性の結論が確立。その後、富裕層向けインバウンドコンサルティングの基礎となったのです。

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ラグジュアリークルーズのビジネスモデルを構築したクリスタル・クルーズ

ラグジュアリークルーズのビジネスモデルを構築

日本郵船は、以前から研究を続けていた既存 の「日本におけるクルーズ事業」から日本郵船による世界を相手にした「国際クルーズ事業」との位置付けで、全く新しい切り口で多面的な情報を求めていた時期でもあります。

クルーズビジネスは、多面性のあるサービス業です。
その背景には旅行者調査や客層動態調査、BtoC調査などの社会心理学的な側面が多いので既存の固定概念は通用しないのです。

アメリカと長年国交を途絶えているたキューバ・ハバナやラスベガスのホスピタリティ・ビジネスの発展に強い関心を持っていました。

ホテルなどの多様性や発展・その背景が、顧客マーケットや彼らの行動形態の徹底的な分析とニーズに合ったホテルや関連施設を作ることで、誘客システムを構築し、マーケットを拡大・定着させているのです。

日本郵船はアメリカでの徹底的なマーケティング分析とそのニーズに合わせたクルーズ客船を造る重要性を理解していたのです。

それが業界30年においてアメリカにてラグジュアリークルーズのブランドを構築したのが「クリスタル・クルーズ」でした。その後ゲンティン香港、そしてA&Kトラベルがクリスタル・クルーズ」のブランドを継承していったのです。

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アメリカ旅行業界に革命を起こしたクルーズ

航空料金の価格破壊

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11990年代のアメリカ航空業界の規制緩和は、流通ネットワークである米国の旅行会社に大きな影響を与えました。

旅行商品の販売ネットワークの中核をなす旅行会社の仕組みや、そこで働くスタッフの対応に変革を迫られたのです。

航空料金の自由化により、搭乗客には多くの選択肢が増えたは良いものの、その顧客対応する旅行会社は、料金が日々変化する航空料金や同じ路線でも航空会社によって料金が大きく異なることで混乱を招いたのです。

さらには旅行者を囲い込むために各航空会社が導入したマイレージ制度により、顧客対応が煩雑になっていたのです。

多くの旅行会社は、航空券の販売に、多くの時間を費やしていました。当時のCLIA(クルーズ客船国際協会)の調査によると、1回の予約に約45分かかっており、非効率的であったのです。

また、料金も競争により低下し、低水準で推移した。

1990年代にはIT化によってコスト削減、旅行会社に支払われる販売手数料に上限が設けられ、利益率が大幅ダウン。航空券の販売は旅行会社にとって採算が合わないビジネスになってしまったのです。

新しい技術への設備投資が行われる一方で、顧客と顧客をつなぐ店頭販売網である中小の旅行会社の体力は、減収が続く中で急速に低下し、航空券のみの販売から、より利回りの高い旅行商品の販売に移行する傾向にあった。

規制緩和による事業環境の激変に戸惑う販売網に対し、米国のクルーズ船運航会社は、クルーズ客船国際協会(CLIA)の設立を通じて、数々の新たな挑戦を試みたのです。

航空料金価格破壊の打開策

CLIAは、米国独占禁止法上のリスクを回避するため、クルーズ市場の拡大に主要な活動を集中させた。

CLIAは、新造船が就航するたびに、新聞やテレビを通じて、他の旅行形態との比較やその価値、クルーズの料金体系、下船後の満足度、新しい旅行形態を理解してもらうための「試乗」などを紹介し、市場の活性化に着手したのである。

また、「クルーズバケーション月間」など、クルーズ旅行の認知度を高めるために、主要雑誌やメディアを通じて全国的なプロモーションが数多く展開されたのです。

これらのプロモーションの多くは、クルーズ旅行はいかに満足度の高い旅行であることを前提に、旅行会社が販売しやすい商品として売り込まれたのです。

また、クルーズ会社で予約した旅行者には、クルーズ料金と航空券を組み合わせた「フライ&クルーズ」というを新たな商品を導入。航空会社もクルーズ会社とコンタクトを取らなければ成立しないような商品もあった。

この効果は特にアメリカ内陸部の中小旅行会社に顕著に表れたのです。組織化しようとする多数の旅行会社も、複雑な航空券の手配から解放され、新しい顧客層を開拓することにもつながった。

CLIA加盟のクルーズ運航会社は、航空券の販売などに苦労していた多くの中小旅行会社を囲い込むことに成功し、新しいクルーズ乗船客を獲得することができたのです。

また、CLIA会員各社は、旅行会社スタッフに「クルーズ試乗会」と称する特別なクルーズを積極的に企画し、旅行会社の担当者にクルーズ体験してもらったのです。

下船後、旅行会社は自分たちの常連客を中心に、従来の飛行機を使う旅行とクルーズ旅行との違いを伝えてもらうこと、つまり「口コミ」に一番期待したのです。

零細旅行会社を救ったクルーズ業界

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クルーズ船上のプールで楽しむ乗客

実際、クルーズ会社の業界担当者によるクルーズ試乗会を開催しつつ販売網を拡大。特に地域密着型零細旅行会社のスタッフの販売活動が、その後のクルーズ市場を支えていくことになるのです。

一度試乗をクルーズを経験した旅行会社は、その満足度について高い評価を与えることが多く、これらの旅行会社は先客にその経験をアピールするようになリマした。

販売すべき商品は、まず販売する側に知ってもらわなければならないのですす。このクルーズ試乗会は成功したのです。

しかも、クルーズの商品は、クルーズの目的地だけでなく、長期滞在中の船上滞在体も重要な要素です。

船上での体験の部分は、乗客の満足度と密接に関係しています。

つまり満足度が高ければ、またクルーズを体験しに来てくれる可能性が高くなり、リピーターヘと繋がるのです。

個人事業的な零細旅行会社も、徐々にクルーズ旅行の楽しさを理解し始め、クルーズビジネスに精通しつつあったのです。

彼らはクルーズという商品をよく理解し、何よりも自分自身が体験しているからこそ、自分の抱えている顧客に説得力のある説明ができるのです。

クルーズ船は、陸上のホテルと違って、クルーズ旅行のベースとなるパンフレットがあり、予約受付のシステムも明確。

ホテルと違って部屋などの割り当て販売なので、パンフレットで選んだオーシャンビューの部屋と、実際にクルーズ船に乗船したときのオーシャンビューの部屋のイメージに違いがありません。

ホテルの場合、実際には宿泊してみないとわからないことが多々あります。

クルーズは事前に自分が希望する客室を指定することが可能です。

このようにクルーズほど中小、個人事業的存在の旅行会社にとっては販売しやすい旅行商品に発展していったのです。

当時ラグジュアリークルーズの代表的存在であったロイヤルバイキング社(現在のバイキング・クルーズライン)の場合、当初のクルーズ市場は、何度もクルーズに参加している乗船客が中心でした。

その「リピーター」をいかに増やし、何度もクルーズに足を運んでもらえるようなフォローをするかが勝負だったのです。

ラグジュアリークルーズの場合、あるサービスに特化することでリピーターを増やす必要がある。

そのため、船内ではサービスや食事がこれまで以上に重要視されたのです。

これまで高価な商品というイメージが強かったラグジュアリークルーズ市場には、多くの「リピーター」が存在します。

彼らはこれらのクルーズ商品を熟知しているので、接客に要する時間は短いのです。

またクルーズ運賃は、フライ&クルーズとして航空運賃とパッケージになっているケースが多く、販売価格に対する旅行会社のコミッションは、航空券の販売だけよりもはるかに有利でした。

航空業界発展に貢献したクルーズ

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早朝のデッキウオークはクルーズの醍醐味の一つ

このような背景から、クルーズビジネスの仕組みを理解し始めた旅行会社ネットワークは、次第にハイエンドなクルーズに目を向けるようになったのです。

各旅行会社が送り込んだ乗船客が乗船中に船内で予約できるシステムを提供することで、船内予約をコミッションとして旅行代理店に自動的に還元することにも成功。

この船内予約システムによって、これまで旅行会社は、初めてクルーズに参加されるお客様には数分、2回目のお客様には15分かかっていた予約を、わずか数分で1回分取ることができるようになり、クルーズビジネスの将来性を実感したのです。

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米国がクリスタルクルーズに注目する理由

富裕層向けインバウンドの成功事例として、格好の模範となるのが米国クリスタル・クルーズ社でした。

このクリスタル・クルーズ社は、最初のオーナーであった日本郵船が、1960年の「氷川丸」の引退以来、すべての定期クルーズ船の運航を休止していました。

しかし1987年にレジャー産業におけるクルーズ事業を目的として、クルーズ船の運航を復活させることにしました。

『松』(北米市場向け大型船)
『竹』(日本市場向け中型船)
『梅』(地方創生を目的とした小型船)

クリスタル・クルーズは、この3つのプロジェクトを同時に進めることにしたのです。

クリスタル・クルーズは、日本郵船本社の客船準備室が1988年にロサンゼルスに設立した100%出資の子会社。

その第一番船「クリスタル・ハーモニー」をベアボートとして、乗組員やエンターテイナーを乗せ、北米のクルーズ市場で事業を行うことを目的としていたのです。

外国人幹部は、ロイヤル・バイキング・ライン社のノルウェー人、フライデンバーグ船長とエンガン船長以外はすべてアメリカ人で、スバルスキーは当時イギリスP&O社の子会社であったプリンセス・クルーズ社の出身であったのです。

彼らの指揮のもと、アメリカ人や約15カ国の永住者を含む100人以上の陸上職員が、プロダクション・ショーの制作、クルーズ商品の開発、スケジュールの編成、港での船舶代理店の任命と監督、船の整備、乗組員の採用と配置、船の運航の指揮、船の乗客と乗組員のための食糧や物資の調達と積み込み、船員への各種サービスなどに従事しました。

乗客・乗員の食料・船用品などの調達・積み込み、マーケティング(広告・宣伝)、航空券予約、乗船券発行、経理などの事務を担当。

乗組員の募集、面接、配属はオスロの事務所を通じてヨーロッパとフィリピンで行われ、船長はキュナード社のカイ・ユルセン氏。

スタッフ船長はロイヤルバイキングライン社のリードルフ・モーレン氏、ホテルディレクターは同じくロイヤルバイキングライン社のオーストリア人、ディーター・ヴェータンツル氏で、彼は船の建造中に三菱重工の長崎造船所に派遣されました。

乗組員の3分の1を占めるフィリピン人船員をはじめ、ノルウェー人の航海士や機関士、スウェーデン人のスチュワーデス、オーストリア人のシェフ、南欧や東欧からのウェイターなど、30カ国以上から集まった500人以上の外国人男女が働いていたのです。

また、プロダクション・ショーに出演するために、英語を話すダンサーや歌手も雇われていたのです。

クリスタル・ハーモニー(現:飛鳥Ⅱ)紹介

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作家、阿川泰弘氏のエッセイより

1990年の横浜からハワイのホノルルまでクリスタル・ハーモニーの処女航海に乗船した作家の阿川泰弘氏は、そのエッセイ「七十の教え」の中で当時の状況を以下の様に記載されてます。

太平洋戦争末期、日本郵船会長だった宮岡公男氏は、若い頃、少尉航海士として戦艦大和の沖縄特攻に随行して駆逐艦響で出撃したが、幸か不幸か浮遊機雷に遭遇して航行不能になり、呉港に帰港せざるを得なくなったことがある。

終戦直前の暑い夏の日、「響」が舞鶴の海軍病院船「氷川丸」から給油を受けた際、「響」の将校全員に船から夕食の招待状が届きました。

お湯が溢れるタイル張りのお風呂に入れられた後、食堂に入ると、白いテーブルクロスの上に洋食のフルコースが用意されていた。

食後には、シンガポール土産のブランデーと外国のタバコをご馳走になった。

あまりのありがたさに、宮岡氏は「これはどこの会社の船ですか」と聞いたら、

パーサーが「日本郵船です」と答えた。

第二次世界大戦が終戦し、舞鶴で見た「氷川丸」の白く優美な姿と、船内で受けた信じられないようなもてなしが脳裏に焼きついてい他のである。

宮岡氏が船内で受けたこの世のものとは思えないほどのもてなしは、彼の心に焼き付いて離れないのである。

ー中略ー

宮岡氏が社長の時、「クリスタル・ハーモニー」(現「飛鳥II」)の建造が始まったのです。

「七十の教え」作:阿川泰弘氏

日本郵船社長の苦渋の決断

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横浜港、山下埠頭に係留している「氷川丸」

戦後、「氷川丸」はシアトル航路に復帰したが、船員費用などの運航コストの高騰や大型ジェット機の導入により、旅客航路から完全に撤退したのです。

その後、日本郵船は、コンテナ船、ばら積み船、自動車運搬船、鉄鉱石・石炭運搬船、紙材料運搬船、原油タンカー、LPG(液化石油ガス)船、LNG(液化天然ガス)船などを運航する世界最大級の貨物専業海運会社として成長し、現在に至っています。

しかし、この間、米国市場を中心にレジャー産業としてのクルーズ事業が著しい伸びを見せていたのです。

「クルーズ船を保有しない日本郵船は高級呉服売り場のある三越のようだ」

と感じた社長の宮岡氏は、周囲の反対を押し切って1987年にクルーズ船運航事業への参入を決意したのです。

北米市場向けの「クリスタル・ハーモニー」と日本市場向けの「飛鳥」(総トン数28,856トン、乗客定員600人、1991年竣工)の建造を決意したのです。

「クリスタル・ハーモニー」の主な概要は以下の通りです。

クリスタル・ハーモニー(現:飛鳥Ⅱ)概要

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クリスタル・ハーモニー最高ランクの客室「クリスタル・ペントハウス」

建造: 三菱重工業株式会社 長崎造船所
受注時期 1988年6月
竣工:1990年7月
船籍:バハマ
総トン数 49,400トン
全長:241メートル
幅:29.6メートル(パナマックスサイズ)
主なエンジン ディーゼル発電機2基、補助発電機1基
出力:47,000馬力、32,800KW、2軸、電気推進式
航行速度:22ノット
最高速度:23ノット
乗客定員: 960人
乗組員数:545名

船長以下、チーフエンジニア、副船長、アシスタントチーフエンジニアのほとんどがノルウェー人でした。

それ以外の乗組員は30カ国以上の多国籍混成で、当社所属の日本人士官は、副船長、副機関長、一等航海士、機関長にそれぞれ限定されています。

ただし、進水当初は一時的に二等航海士、二等機関士などに日本人士官を増員されました。

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