三菱重工業長崎造船所で建造が進められている新造船のデザインおよびネーミングも、新会社にとって大仕事でした。
この船名決定後は、次から次へと宣伝を打つ段取りが出来ていたので、こ の船名決定は、それら一連のマーケットへの浸透作 戦展開のキック・オフに当たる大きなステップ への第一歩という位置付けであったのです。
1988 年の 6 月、東京で三菱重工との間で新造船の正式調印式があった(6 月 10 日)。7 月には、新造船のデザインも固まりつつあった。ここで日本郵船としては、外から 見た本船のデザインが気に なってきた。まずはファンネル(煙突)のデザインが議論の的となったのです。
これは家の門構えと同じで、 その船がまず注目を集める箇所であったからです。東京本社は、日本郵船の「二引き」のマークをつ けたい、と主張した。これに抵抗したのはアメリカ側である。二引きのマークでは、アメリカマー ケットに対するインパクトに欠けるし、何のために「ロゴ・マーク」を決めたのかと言った議論でした。
対象顧客であるクリスタルクルーズゲストにも、クリスタル・クルーズのアイデンティ ティとしては 「ミラード・シーホース」との関係がよくわからず、混乱する。やはりここは、クリ スタル・クルーズのシンボルである「ミラード・シーホース」とすべきだと言う。結局、アメリカ側の意見が通ったのです。
ファンネルに付けるマークについては、東京側が折れたかたちになったが、日本郵船の船であることを明確にするために二引きの線を船体に入れたい、という強い要請には変わりがなかったのです。
そこで、船首のところにブイマークの NYK マークを入れ、船首部のマストに二引きのマークが入るこ とで決着を見た。
その前後、1988 年 7 月は、日本側に客船準備室が設営され、一方アメリカにおい ても、クリスタ ル・クルーズ会社がセンチュリー・シティの FOX・PLAZA ビル 2 階設立。 いよいよクリスタル・クルーズ第一船のネーミングでした。
1988 年 10 月、全米 1905 社の旅行代理店が参加した「ネーム・ザ・シップ(Name The Ship)」コン テストが展開された。
740 ものネーミング案がクリスタル・クルーズに寄せられたのです。
方針として船 名は、各種コンテストや調査を経てラグジュアリー・クルーズ客船としてのイメージに富み、クル ーズ船客やマーケットでも受け入れやすい船名の候補を選び、最終的には日本郵船で決めてもらうことを決定。
この事業が20 年先のベビーブーマー層を想定した長期的なプロジェクトとの認識のもと、将来の三隻体制を念頭に入れていたので、第一船だけでな く 3 つの パッケージとした下記 2 案に絞り込まれ、下記の両案が残ったのです。
A 案 クリスタル・ホライズン クリスタル・リフレクション クリスタル・エクサレンス
B 案 クリスタル・ハーモニー クリスタル・セレニティ クリスタル・ラプソディー
他に、ブリーズとかエレガンス、メロディ、ドーンなども候補線上にあがったが、それぞれ日米の感覚の差やイメージで調整が行われました。
ミストもあったが、当時の 日本政界を揺るがすスキャンダルの「黒い霧」を思い出させるとして、これは却下された。
「クリスタル・クルーズとしては、独創性・創造性
・妥当性、その言葉の持つラグジュアリー商品の優雅さなどを念頭に三隻の名前の適合性を重視した。
とりわけ、独創性にはこだわりを持たせたかったのです。
この業界でポピュラーなサン、 スカイ、シー などは回避したい。
適合性では名前の響きなどを選考ポイントとして、 三隻とも末尾が Y で終わる B 案が良いのではという意見が大勢を占める。
こうして 1989 年 1 月 15 日、新造船の名前が「クリスタル・ハーモニー」
この船名決定に際して当時の「日本海事新聞」は下記のようなコメントを載せている。
—郵船の大型クルーザー船名決まる。 光り輝く太平洋の世紀をイメージ CRYSTAL HARMONY ・ ・・・・・宮岡社長は次の通り語った。
一、 船名の選定に当たっては日本のお客さんも、アメリカのお客さんもわかりやすく、覚えや すい名前である事を第一に考えた。次の本船が最新鋭の設備を持ち、欧米の一流デザイナーに よるエレガントな設備、ハード面が良いのと同時に、乗組員 のサービスつまりソフト面でも 調和(ハーモニー)がとれると。日本、台湾、韓国、中国など太平洋沿岸諸国のお客さんと船上 で忘れがたい友情を融和(ハーモニー) を導くものとした。
ー.またハーモニーの NY で終わる語尾は外国人にとって語感が良いらしい。それに第2、第3船をシリーズ建造する場合、たとえばシンフォニー、メロディなどに繋がることを考慮に入れた。米国 の代理店、本社でも船名を募集し、ハーモニーに多数の応募が寄せられた。第一位ではなかったが 最終的に私が選定した。
1、2隻目の建造は、第一船の実績を見た上で決めたいとのこと。世界の客船経営を一隻で やっている所は、ドイツのハパグ・ロイド社しかなく、当面、最低二隻は必要と感じている。それにロサンゼルスに60 人、日本約10人いるクルーズ客船事業の要員規模からみれ ば、2〜3隻までの運航が可能で、経費が安くなる。
帰りの航空運賃は船会社で負担するため、数が多くなれば航空会社との航空運賃の交渉もしやすくなろのです。
1989 年 1 月 「ロイヤル・バイキング・サン」のサンフランシスコ入港
クリスタル・クルーズの事業の段取りも、着実に前進してきた。当時の記録を紐解いてみると、当時のラグジュアリー・クルーズの代名詞であった ロイヤル・バキング社の最新鋭船 ロイヤル・バイキング・サンがワールド・クルーズの基点港サンフランシスコに入港。
この機会を捉え,クリスタル・クルーズの チェックリストを元に、彼らのハード・ウエアとの徹底的 な比較検証を行ったのです。
その後、1 月 10 日には、フロリダ、オーランドで、CLIA の会議、1 月 16 日には購買関連の新会社設立に関しては、パートナー明治屋との関係やクリスタル・クルーズ内 の組織、購買部門との仕事の振り分けなどを議論したのです。
1 月 19〜20 日は、翌年 7 月に予定されるクリスタル・ハーモニーのロサンゼルスでの命名式のイ ベントの為に、どの PR 会社と提携をするかの内部的なプレゼンテーションに費やされていました。
第一船 「クリスタル・ハーモニー」予約開始
この船名決定から半月後にクリスタル・ハーモニーのクルーズ予約受付が始まりました。
当日、予約係は東海岸との時差の関係で午前 7 時から 業務を開始した。こ の日、午後 5 時までの間に全米の旅行代理店から約 250 件の電話があった。
しかしこの段階ではまだ料金レベルなどに関して最終的なものではなく、仮予約てという段階でした。
彼らは、料 金が未公表にも拘らず、最上層階のペントハウスから仮予約を始めた。特に、最上の部屋、クリスタル・ペントハウスは、翌日全額支払うと言う乗船客で即完売となったのです。
仮予約の電話は、いままでのクリスタル・クルーズのブランド構築活動などを通して、 どのようにマーケットが反応するかを測る指針として、きわめて 重要なものであった。
彼らの予約 の客層が、今までどのクルーズ会社に乗船しているか、あるいはクルーズ船客の乗船経験の有無などが、非常に重要なポイントでした。
また、アメリカのどの地域からの予約かも、今後の集客 活動にとって大きな意 味を持っていた。かなりの予約が、今までロイヤル・バイキング社の乗船経 験者で有ったが、一部には、シザーズ・パレスのカジノがあることで予約して来た初めてのゲストもいました。
プリンセス・クルーズ社の上層階のゲストも多かった様子です。
特にアラスカクル ーズの売れ行きは当初の予想以上の反応だったのです。これらの傾向を通して上層階の部屋から売れていくということは、クリスタル・クルーズが狙いを定めた、富裕層が反応しているということが 判り、今までのマーケッティングやセールス戦略の正しさを示しており幹部らは安堵したのです。
クルーズを予約しないまでも、多くの質問もあった。これらの質問は、今後のマー ケッティング やセールス活動の為に、極め重要なポイントを突いていた。早速マー ケットに正確な認識を提示す ることにより、今後このような質問を回避するようなコミュ ニケーション戦術をとり、実情を周 知徹底することにした。当時の主な質問は下記のような点で あった。
・ クリスタル・クルーズのホーム・オフィス、船上における主要スタッフは誰か? ・主要ターゲットマーケットは?
・ クリスタル・クルーズと親会社の関係は?
・ 旅行代理店に対する基本方針/インセンティブなどはどうなっているのか?
・ 本船のハードウェアは? ホテルは誰が面倒を見るのか?
・ 船長はどこの国の出身者か? 主要乗組員構成は?
・ ダイニングスタッフは?
・ メインダイニングルームでは、ワン・シーテングかツー・シーテングか?
・ スペシャリティ・レストランはどう運用するのか?
・ 料金はいくらなのか?
・パンフレットを早くもらいたい(これは料金を最終的に決めていないので、まだ作れない。
翌日、全米のセールスの幹部と各地のセールス・スタッフ候補生を、センチュリー・ シティのレ ストラン Jimmy’s に集め編成会議を開催し、今後のセールスの戦略に関して詳細を詰めた。初日の 好反応にも満足せず、私たちは、クリスタル・クルー ズのプロモーションを推し進めるのです。
とくに力 点を置いたのはメディア対策であった。「ニューヨーク・タイムス」「ロサンゼルス・タイムス」 など全国紙のみならず、とりわけクルーズ客層に密着した、全国紙より週末の団らんで話題になりやすい地方紙に重点的に焦点を当て、積極的に「Crystal Age Begins」(クリスタル・エイジ・ビギンズ、クリスタル時代の幕開け)を宣伝したのです。
まだクルーズ客船がない状態では、その船上の滞在環境を作る人材を前面 に出し、それも今までの幹部のみならず、セールスの核となる現場のスタッフを前面に出し、クリ スタル・ クルーズを支える人材の露出でマーケットの信頼を得る戦略でした。
さらに、フリーランス記者の積極的な活用も、戦略の一つである。
クリスタル・ハーモニー建造時から、このプロジェクト参画者としての立場で、進捗状況などを頻繁に記事にしてもらい、そのネットワークで配信。このようなメディア反応を、旅行代理店とのネットワーク作 りにおいては数値管理し、効果を挙げるという方法をとったのです。
当時の状況を、平成元年 2 月 15 日「海事プレス」の報道は、下記のように伝えている。
1日だけで問合せ1千件が殺到。
郵船の新造客船人気は予想以上。料金は12段階平均370ドルに一
日本郵船の CRYSTAL CRUISES(本社:米国カリフォルニア州センチュリー・シテイ)は先週 6 日、米国 で、アラスカ・クルーズ 12 日間のブッキング受けを開始した。
新造船クリスタル・ハーモニー(乗客定員 960 人)に対する関心は、予想以上に高 く 「一日だけで 1 千件に上る問合せが殺到した」という。アラスカ・ク ルーズサンフランシスコ発着の料金は航空 料金込みで一人一日310〜1,000ドル、平均370ドル。 人気の高さから見て、年内 に 6〜7 割の予約を確保できる見込み。
“Crystal Age Begins”
ロサンゼルスでは、この船名発表と予約開始に際して “Crystal Age Begins” を合 言葉に、各種 のパンフレット、ビデオ・プロモーションを一斉に展開し、その他、「プ レースメイントアドバー タイズメイント」などの手法も駆使した。クルーズ船客や マーケットに対して、クリスタル・クル ーズの事業企画が、着々と進んでいることを発信した。クルーズ業界およびクルーズ船客への情報 提供には、イメージのみならず、商品の中身を知って貰うべく「インフォマーシャル」を多用した。 プロダクト内容を熟知してもらい、既成クルーズ客船とのデフェレンシェーション(差別化) に活用 したのである。多彩な宣伝手法の活用で、船上における滞在環境の認知度を高めることとした。
また、2 月 5 日には、前田さんが、ロサンゼルスに入り、翌日は河村さんが合流して、ウエストウ ッドのリージェンシー・クラブ(Regency Club)で「クリスタル・クルーズ」プロジェクトの進捗状 況の検証と今後の対応、特に、船上の組織及び配船問題、 長崎におけるクリスタル・ハーモニーの 建造の段取りや処女航海などの段取りに時間が割かれた。この頃長崎では、クリスタル・ハーモニ ーのメイン・エントランス、パームコート等のモックアップが完成、利便性や居住性など、チェックされ、12月に完 成していたクリスタルペントハウスなどの客室では、三菱重工 業の社員カップルによる試験滞在などをしている頃であった。
1989 年 2 月 カイ・ユルセン船長任命
「クリスタル・ハーモニー」船長として、サガ・フィヨルド号などに乗船し、その後アドミラル・ クルーズ社で、現役の船長であったカイ・ユルセン。副船長として、ロイヤル・バイキング社から、 レイドルフ・マーレン、機関長ジョン・エドバーグを 引き抜き、任命し発表した。当時はまだ、こ の新造船の最高責任者は、日本人船長 が中心となって運航すべしとの意向も強く、ロイヤル・バイ キング社のノルウェー色を薄め、政治的な判断も働いた。
一般的に、クルーズ客船の船長は運航部門の最高責任者であると同時に、船上での接客に最も忙しいという役割でした。
自薦他薦を含め、ロイヤル・バイキング社の首席船長やこの業界の主要な船長と直接面接し、ある時は、間接的ににコンタクトを取り、アメリカ側としては、当初はアメリカ人ゲストに、好評なノルウェー人船長で、ロイヤル・バイキングの首席船長、オーラ・ハーシャイム 船長か、次席船長レイド ルフ・マーレン船長を最優先候補としていたのです。
最終的に、同じ北欧系であるがロイヤル・バイキング社ではなく、サガ・フィヨルド 号などを運航している NAC社などの船長を続け、当時は、アドミラル・クルーズ 社の船長を務めていたカイ・ユルセン船長で決定。
この様にして決まった船長カイ・ユルセンのほか、副船長のレイドルフ・マーレン、 機関長のジョン・エドバーグ等は、6 月 1 日には長崎の造船所に派遣されました。
現場での調整と機器などに対する慣れが重要な仕事であったので、運航関連以外のホテル部門の人選も行っていたのです。
長崎の造船所では、4 月 14 日クリスタル・ハーモニーの船体にコインをはめ込むキール・ コインセレモニ ーが開催された。
この儀式はヨーロッパに於ける新造船に対する祈願と祝福を兼ねて行われ、船体の竜骨部(キール)にコインを溶接するものでした。
船上ホテル備品及び食材購買部門と「MY NYK International」
3 月 3 日には、ロサンゼルスに「MY NYK International」が設立されました。日本郵船 51%、明治屋 49% の株式を保有する船食納入会社。
このプロジェクト初期の構想で、この部門に関しては、日本側として「環太平洋クルーズ」構想の下に、シンガポールの新会社に購買関連業務を一括して任せ るとの発想だったのです。
日本側では戦前の客船時代の購買部資金の流れ複雑さと管理システムを認識していたので、 クリスタル・クルーズ組織内に購買部を設ける事で、計数管理が不透明になり、担当者の予期せぬ事故などに巻き込まれかねないと主張していたのです。
クリスタル・クルーズとしては、それでは運航業務をアメリカで行い、ホテル部門の運営も、アメリカが主体的にやるにも拘らず、購買部門だけを運航業務本体からはなれたシンガポールで行うのでは機能しないこと。
また大きな予算の動きに関しては現在のクル ーズ客船におけるホテル購買システムは、計数的な管理が進んでおり、購入と消費がハッキ リと判るシステムの構築が出来るとして、このシンガポール購買事務所案には反対意見を申し出。 日本郵船と明治屋との提携で、MY NYK 社の設立で対応しようとしたのです。
1989年4月10日、ロドニーとロサンゼルスでのハーモニーの命名式の段取 り担当のダーレイン・パパリーニなどが、三本さん(副社長)等と面談の席上も、これが話題になっ たようであった。
この案件は、その 2 カ月後に起こる世界的事変によって解決することとなる。
コンピューター・システムによる陸上での運営管理・船上での諸処理などの一括システムや寄港地手配などの構築
この頃、新会社として、独自の予約システムや、船上でのホテルシステムを構築することを決め ていたコンピュータ関係のシステム・プログラムが完成しつつあった。
(1) 陸上の管理部門のシステム
(2) 船上での運航・ホテル営業部門のシステム
(3) 世界各地から調達する数万点に及ぶ船用品や将来の食材などの 調達するシステム
(4) 旅行代理店などとの予約システム、全て自前で構築すべく計画していた。
また、集客したゲストのロジステックスの面で最も重要なアメリカの航空会社とのボリュ ームに基づく、特別割引契約などの取り決め交渉が続けられていたが、これらも目処が立ち役員会で承認された。
クルーズ客船には寄港地手配が付いて廻るが、そのそれぞれの寄港地における諸 手配の為に港湾代理店やクルーズ船客の観光などを手配するランド・オペレーターと言うツアー会社の選定も重要な仕事であった。
処女航海の寄港地、アラスカは、ホーランド・アメリカ社系とプリンセス・ク ルーズ社系のランド・オペレーターが独占していた。彼らの手配する運転手やヘリコプター、水上機のパイロットの多くは、夏のアラスカ、秋・冬季のカリブ海で、ツアーの仕事を支えている渡り 鳥スタッフ であった。
このため、ランド・オペレーターも人的手配に制約があり、寡占状 態でもあったのでどうしても割高にならざるを得なかったのです。
アラスカの州政府は、クルーズ客船 の大型化に対して危惧を示していた。
大型クルーズ客船で観光客が大入すると、アラスカの自然が守れない。
もし、アラスカ観光をしたいと言うのであれば、入頭税を設けるというも のであった。
当時のアラスカ州選出のボーランド系実力上院議員、フランク・マルコウスキーなど にクルーズ会社として陳情攻勢も激しくなった。
この様な時に、アラスカのアンカレジの南、プリンス・ウイリアムズ・サウンドで、 タンカー「エクソン・バルデス」による未曾有の石油流出事故が発生し(1989 年 3 月 24 日) クルーズ客船の安全性にまで話が飛び出したのです。
アラスカで最も氷河の崩落の激しくクルーズのハイライトと言われていたグレシア・ベイに寄るクルーズ客船に過去の配船実績を元に、寄港制限をつ けると言い出したのもこの頃でした。
クリスタル・クルーズの様な新生の会社にとっては、厳しい制限でした。
処女航海のアメリカ人クルーズ船客は、最上のクルーズ会社であれば、当然、このグレシア・ベ イに寄るものと思い込んでいる。ここへの寄港権は、彼らの第一印象や評価にも影響するのです。
そこで、 関係先と調整する目的で、ロビーイストを活用することとした。彼らを通して、過去の実績はあるものの、この年には配船をしないキュナード社の権利を譲り受ける事を工作した。
幸い、年末まで に取得が確認でき、クリスタル・ハーモニーの就航に間に合わせる事が出来た。
1989 年 5 月「客船レジャーの情報誌」創刊号と「クルーズ元年」
日本で「クルーズ』(隔月刊海事プレス社)の創刊号が発行された。その『クルーズ」5 月号で「客船時代、再び」と銘打って「クリスタル・ハーモニー」の特集を組んでいる。その記事によると、 ー「クリスタル・ハーモニー」は日本最大でかつ最も長い歴史を持つ海運会社・日本郵船がこれも 日本最大で最古の歴史を持つ造船所・三菱重工長崎造船所で建造している。
日本郵船は戦前 「浅間丸」「龍田丸」「鎌倉丸」をはじめ、世界各地に豪華客船を配船戦後もし ばらくは、いま横浜に係留している「氷川丸」で船客を運んでいたのです。
その会社が昨年アメリカに「クリスタル・クルーズ」と言う客船会社を設立し、客船の発起から就航まで 3 年以上の準備期間をかけて来年 6 月に新時代の豪華船「クリスタル/ハーモニー」を登場させようとしている。
東京サンシャイン60より1メートル長い241 メートルの長さを持ち、普通の外国客船であれば、 1800 人も乗船できる大きさなのにこの船では乗客定員をわずか 960 人に抑えている。
それだけぜいたくな造りになっている。
「太平洋文化の架け橋に」がキャッチフレーズの「クリ スタル・ハーモニー」。
春は 日本・韓国・中国、夏はアラスカ、秋はパナマ運河経由カリブ海、冬 は南太平洋と、太平洋沿岸をそれぞれ最も美しい時期に訪れる。
処女航海は来年 7 月のホノルルクルーズでした。
クリスタル・クルーズ以外にも、日本の貨物船会社が、独自のクルーズ客船運営構想を持って華々 しく、花開こうとしている先賭けでもあった。この年の日本はクルーズ元年と言われクルーズ 客船に対して熱い期待が集まっている時でもあっ た。
ホテル部門幹部の採用開始
1988 年年末、三菱重工業の作業も順調で、パームコートなどのモックアップも完成し長崎での船 上における施設や設備に対して、多方面からの検討を加えている頃、 ロサンゼルスでは、幹部船員や乗組員の採用が本格化してきたのです。
1989 年 2 月 3 日には、船上における商品開発と採用戦略(船上での滞在環境)の会議を行った。
適材適所の人材を求めて:ノルウェーやオーストリアの古城へ
創業幹部らは、ホテル部門の採用幹部と船上でのスタッフを求めて、オーストリアのザルツブルグに飛んだ。目的はクルーズ関連のホテル経営を専門にしている経営者に会うためでした。
ロイヤル・バイキング社もオーストリア人のマネージメントスタッフをホテル・オペレーションの核になるポストで、採用している。
オース トリアは、観光立国であり、国内に散らばる古城や山小屋 の地下を改装して、ホテ ル学校を兼営している所が多い。
当時は9 校あり、その中でもシ ャコーシが経営するホテル・マネージメント会社が、ロイヤル・バイキング社の優秀な人材の供給源になっていたのだ。
当時、シャコーシは、海上でのホテル要員 250 人、陸上でのホテル要員500 名を抱えていたが、 彼らの多くは、オーストリアのレストランやホテルで実習生としての経験を積んだ 即戦力部隊でした。
このオーストリア・システム の強みは、料理なども著名なレストラン等の 所謂「徒弟制度」で技術を習得するのではなく、このマネージメント会社のマニュアルに従ったシステムで教育されていた事でした。
ハプスブルク家の伝統の味など、いろいろなところで継承されていました。
ここの主力スタッフを、クリスタルクルーズ社の新造船ホテル部門や料理部門に勧誘する事に成功したのです。
食に関しては、彼らの助けがあれば、少なくともロイヤル・バイキング社のレベルは維持できると予測。その後も、この人脈が、クリスタル・クルー ズの船上でのダイニングのシェフとして活躍くれたのです。
日本料理レストラン「京都」の挑戦……「生の魚には、虫がいる?」
クリスタル・クルーズの和食レストランの導入というチャレンジは、この頃も続けられていたのです。
クリ スタル・ハーモニー就航前1989年、 NRS (National Restaurant Assn)の人気度調査によるとア メリカにおけるエスニック料理とは、ベスト 3 が 1 位イタリアン 36%、2位中華 23%、3位メキシコ20% 以下の4位ギリシャ、5 位ラテンアメリカ、6 位スペイン、7 位フレンチ、8 位カリビアンのあとに日本料理であり、「日本食」は、一般のアメリカ人というより日系人を中心としたマーケット に過ぎなかったのです。
ちなみに上位 3 種は全体の 8 割を占めていることからも、そのマーケットの小ささが推測されたのです。
アメリカにおける日本料理といえば魚料理・鉄板焼き・しゃぶしゃぶ・懐石料理な どがニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなど一部の日系人を中心とした社会では受け 入れられていた。全米規模でみると、日本食は、マニアックなジャンルでした。
特に日本の食生活から最も遠いのが、ラグジュアリー・クルーズのゲストであり、大きな比重を占めるユダヤ系アメリカ人であり、食生活に厳しい規律が求められる彼らにはまったく受け入れられていなかったんおでした。
第一号船、クリスタル・ハーモニー建造が決まった後も船上に設けられる予定の和食レストランをどのように運営するかは大きな挑戦でした。日本郵船の見解は世界最高級の客船だから、当然和食レストランも、東京都心の超高級和食レストランと同等のものを作るというポリシーがあったのです。
クリスタル・クルーズは試行錯誤で、 当時のクルーズ業界では画期的な日本料理レストラン「京都」を設けることとなったのです。
しかし、この要請には、マーケットに無縁な新しい日本食を、日本食に最も遠いものです。
クルーズの乗船客に食させると言う難題が付き纏っていたのです。この実現には非常に多くの障害が横たわっていました。
当時は、アメリカでは寿司が健康食であるとの報道の一方で、生の魚には虫がいるだとか、素手で寿司を握るのは不潔ゆえビニールの手袋をすることなど、生の魚やそれを料理することに対するネガティブな見方か非常に多かったのです。
ロサンゼルスタイムズによると、生の魚を食べる寿司は不健康である等といった記事も掲載していた。
アメリカ人、特に主要客層で有ったユダヤ系のクルー ズ船客 にとって、日本食の食材への無知識は酷く、塩辛は「虫」だと言い出す人もいたちなみに、今のア メリカでは、日本人が描く”なま”寿司ではなく、アメリカ人に食べやすい巻物を中心とした寿司がブームなのです。
当時は、連邦衛生局(USPH)も、クリスタル・クルーズが、日本食を出すことに 対して懸念をしていたのです。また、日本食の分布も、上述のようにニューヨーク・ロサンゼルス・サンフランシスコな ど限られた大都会偏重が顕著であった。また、「すいび」レストランでのダグラス・ワードのアド バイスにもあったように鉄板焼きやしゃぶしゃぶ・すき焼きはクルーズ客船では問題が多く、懐石料理も困難が大きかったのです。
この様な中で、サンフランシスコの日系ホテルの中にある日本食レストランを指揮していた酒井君を引き抜き、限られた条件の中で、日本食のメニューを考えてもらう事とした。
彼のメニュー作成の過程で、食材のみならず、食器などに対する手配の問題が発生した。
日本食には、多彩な食器 が必要なのであった。
それを船上の 限られたスタッフで如何に、洗浄し管理するか新しい問題も生 じた(ここで重要な事は、酒井君の働いていたレストランの客は、ある程度の日本食を試食経験のお 客が対象であった。船上の環境とは、大きな違いが有った。
日本食の問題点とは
上述のように、新造船には世界に冠たる豪華クルーズ客船を造るのだから、日本の食文化を世界 に広める為にも、豪華な料亭のような料理を提供すべしと言う意見であった。
生魚に疎いアメリカ人にはすしが、生の魚を扱う、その匂いに対する嫌悪感や内臓に虫が居るとか、今では想像も付かないような見方が溢れていたのです。
(1) 『割烹懐石料理』 東京が言う懐石料理は、非常に難しい。レストランを選ぶ動機を観察すると、日本では、割烹懐石料理の多くは、食材の多様さと料理の技量で作られておりその屋号とかシェフの名前で、レ ストランを選び、料理は彼らにお任せの料理であり、 店のブランドとシェフの技量を信頼して、 口にしているものである。一方、アメリカでは、日本食の食材に疎いアメリカ人にとっては、料理の中身が分からなく、好まれないし、醤油味に対する拒否反応やアレルギーもあったのです
また、 固苦しいフォーマリティが感じられると言う。日本食を初めて口にするアメリカ人の多くは、食材が気になり「これは何」との質問攻めでこれに答えるシェフは、一般的に、英語力不足、また、ウ ェイターは、日本食を経験したことのないヨーロッパやフィリピン人で、料理とクルーズ船客のコ ミュニケーションが成立しないのです。
宗教的な戒律の厳しいユダヤ人も含め、イメージの浮かばない食 材を基に食べる習慣が少ない人達にお任せで料理の中身が判り辛い料理を、クルーズゲストに、 喜んで気楽に食べても らうこと事は至難の業でした。
徒弟制度的な料理法習得の為、シェフが代われば、料理の作法が変わり、味付けも異なるのでは、 クルーズ船客からの評価も定着しない。食材の調達方法も、陸上でのオペレーションと全く異なり難問であった。
(2) 「アメリカ人のレストラン観」 アメリカ人の「レストランに対する期待/見方」も、壁となって立ちはだかっていた。アメリカ人は、レストランでの食事の時間を大事にし、団欒や社交の場として捉えており、自分たちの気分で、 長居したがる傾向があります。最低でも 2 時間は掛けるのです。
その点、和食のレストランでは、コースもの のメニューも限定されがちで、酒などの飲み物などで場を持たせるしかない。
日本の料理の中で、割烹などや大型料亭などの料理以外では、「しゃぶしゃぶ」「すき焼き」「鉄板焼」なども考えられるが、これらは、どちらかと言うと家庭料理的で、 基本的にセルフ・サービス的でもある。
鉄板焼きやしゃぶしゃぶなどで 2〜3 時間の場を持たせるのは非常に難しいのです。
日本で生活しているなじみの人たちには、それでも良いが、日本料理に疎いアメリカ人には、日本のこ のような環境と、まったく無縁な人たちが多かったのです。
匂いにも厳しい、焼き物も匂いが強いし、時 にはアメリカ人になじみの薄く、匂いが嫌われているしょう油なども使用しなければならない し、クルーズ船客のほとんどが和食を口にしたことがない人たちである。
活きた魚に、しょう油を つけて食べさせるなどといったことはできるはずもなかっ た。しょうゆの味や匂いが耐えられない と言うアメリカ人も多かった。
(3) サービス運営面での難しさ
80 年代の当時は、鉄板焼き料理が流行していたが、ブームは下降期でその代表格 「ベニハナ」等も、飽きられ大衆路線化に舵を切っていた。
特に、セルフ・サービス的で華やかさが出づらい。フォーマルに不向きに加え、高級イメージも低く、相席の可否・席に詰め込まれるスケジュールが、 シェフ主導で、食事の時間に制約があり追われる感じなどの不満もあったのです。
タキシードやドレ スに匂いがつき、タレものも多くテーブル・クロスが、汚れや臭気が付く、又、船上であるが故に 換気に注意、最大の注意を払わねばならぬ。鉄板焼きには、サービス品目としては、ビーフ、照り焼きなど、単品指向でメニューに広がりを生み辛く弁当箱的でもあったのです。
肉料理主体の鉄板焼き、すき焼、しゃぶしゃぶや、てんぷら料理には、タキシードとかイブニン グドレスには、不釣合いで、航海中の船での料理には、危険も伴い、不似合いであった。シャブシ ャブなどは、これは、料理を経験した事のある人にしか、上手く運用できないし、これもフォーマ ルに向かない「匂い」と言う大敵が付いて回るのです。
しゃぶしゃぶやすき焼きには、基本的にセルフサービス的なサービス形態でありサービスをする外国人サーバーにはなじみの無いサービス形態でした。
アメリカでは、バーベキューなど一部の食事を除いて、レストラ ンで は、サービスをする人、サービスをされる顧客の立場の違いが明確でした。
これらに加え、食材調達などの難しさ(世界各地での調達能力)も議論となった。クルーズの航路 によって、どのように和食の食材を調達するか。それに加え、サービスをする外国人スタッフのそ の食材に対する知識程度と、周知する際、その説明 の難しさも問題であった。アメリカで成功して いる多くの日本料理屋には、しっかりした、料理の食材を(英語で)説明できるウェイターやウェイトレスがいます。
アメリカでは、料理はエンターテイメントであり、食べ物の説明も重要な仕掛けの 一部なのです。
エスニックとしての日本食に対する経験がない外国人サーバーのサービスをする支援体制にも問題があると思われた。船上でサービスする(イタリア人やフィリピン人 は日本食を一度も食べた事のない人たちでした。
日本食の食材に対する知識レベルを(特に懐石料理)を如何にトレーニングするか、議論されたが、 妙案は無かった。
例えば、酒はワインとは異なり、長くは保管できないし、船側でサービスする外 国人には、欧米の知識はないこともあり、日本人客からは「酢」化した酒のコンプレインを受ける事になる恐れもあったのです。
日本食のサービス形態とアメリカ人の馴染みのアベタイザー(前菜)からメ イン・コースへの区別が不透明で、サービスの仕方に問題が出る可能性がある。味噌汁がスープ と思い、アペタイザーで出てきたり、遺物を、サラダと思い込んだり、生活習慣も違い、緑茶を頼むとセイロンの紅茶のようにスプーンと砂糖とミルクを持ってくる。
和食のメニュー構成においても困難を極めたのです。焼き物も匂いが強いし、時には醤油等も使用しなければならないので、クルーズ乗船客のほとんどが、和食を食べた事が無い人達なので活きた魚を食べさせるなどと言った事は難事でした。
多くのクルーズゲストは、宗教的な理由で自分が納得できないものや好みで 魚貝類や得体の知れないものを食べる事が出来なかったのです。
メニューは、加熱をした物を中心とした日本食のメニューを用意することにしたが、限られた船内の調理スペースでもあり、シェフにとっては厳しい料理環境であった。
アメリカのレストランでは、一般的に、アペタイザーは、他の人と同時にサービスされるが、船上のスタッフでは、和食の場合、料理が遅いと一品料理がバラバラ 出てきて、同じタイミングでは出てこないことも多かったのです。
その結果、出来るだけ前菜とメインコースに、サービスをする形態にせ ざるを得ないかったのです。シェフの試作品であった炒め物は、食材が不透明で米は副食だと言い主食ではないと考えているのです。
寿司はアペタイザーで主食ではないとか、味噌汁はスープゆえ最初に出すべきであるなどの見方の違いもあり、その運営に関しては多くの課題を抱えていた。
(4) 船上勤務の人材確保と日本的料理手法の難しさ、シェフの雇い入れも問題でした。日本料理には、前段階の準備が必要でそのためにスタッフも
十分居なければならず、一般的にロサンゼルスの陸上のレストラ ンで働くより、厳しい環境で、待遇も競争力がないとすれば、良いスタッフを探す事は待遇も含め難しい仕事です。
日本食 の料理手法に、手間が掛かる事も、レストラン運営を難しくしたが、それに加え料理の職人が、多 くは徒弟制度で料理の手法が、人によって異なる事や食材の調達などが障害として横たわったのです。
独自の作業流儀があったり、味付けが異なったりしている現実と、懐石料理の専門家に寿司やうどんを作ることを勧めるのはかなりの勇気が必要であった。
作業をする仕事場も制限があり、当初望んだような、高級料理を提供するような設備や舞台裏になっていなかった。それに加えて、職場陸上とは大きく異なる船上での勤務体制も大きな問題であった。
雇い入れも労働条件などから、難しいことは明らかで、また、アメリカ人やヨーロッ パ人では、言葉の問題もあるのです。
一方、表向きは日本人でも、日系米人は、日本の事も判らぬことも多く、料理法の異なる船上料理場での厳しい挑戦でした。
クリスタル・クルーズ独自の「プロダクションショー」の準備
クルーズ客船で旅行中、船上での楽しみの一つに、ロマンスの中心になる夕食後の大劇場におけるプロダクション・ショー。
食後の雰囲気を盛り上げ、船上での滞在経験をより快適に、濃 密にする舞台装置、パフォーミング・アートです。
クリスタル・クルーズは、既存のクルーズ会社とは異なり、自前のプロダクション・ショーを提供する事を決めたのです。
クルーズ客船社によっては、このようなショーを専門とする会社に外注で依頼するケースも多いが、クリスタル・クルーズの場合、このパフォーミング・アートは、演じる者と観客に一体感が重要であり、そこに微妙なケミス ト リー効果があり、プロジェクトの具体化と共に自前制作を目指した。
制作監督・ 振り付師・コン ピュータ制作担当・舞台監督をはじめ男女歌手・男女歌手兼ダンサーおよび専属バンド等を入れると、乗り出し時、総勢役 20 人、3隻体制になれば、80 人前後の規模の大所帯のプロダクションチームが出来、この運営や各制作にはかなりの費用と日数を要することとなるのです。
男女歌手やダンサー等は、一隻に 2 セット(二隻の場合、約 3 セット)分(船上 のキャストとして は男性、女性それぞれのリード・シンガーと 8 人の踊り手 + 歌手 の 10 人構成で更に、2 人が休暇の体制が必要で、乗船していない歌手/ダンサーは、ロサンゼルス・パサデナのスタジオにおいて、 毎日練習漬けでリハーサル、仮に船上の歌手あるいはダンサーに怪我など何か緊急事態が生じた場 合、いつでも補充が効くようなバックアップ体制を作る必要かでした。
歌手やダンサーは、もちろんプロとして生計を立てており(一般的に 18 週間契約となっている)。 ニューヨーク・ロサンゼルス・ラスベガス・ロンドン・シドニー等でオーデションを行い、採用の 可否を決めるが、一回のオーデションに大体 100〜200 人ぐらいの応募者があり、その中から 1 人か 2 人の採用となるのです。
給与体系(平均): ヘッドラインシンガー :1,500 ドル/週 バックグランドダンサー:300〜800 ドル/ 週。
通常 45〜60 分間のプログラムを制作するのに約 4〜6 か月を要し、これ以外に、衣装合わせや衣裳などの手配に、更に 2〜3 ヶ月を要することになるのです。
外注のプロダクション・ショーの場合 1 か月 もあれば、クルーズ客船会社として最高レベルの個性的なショーにするためには自前が望ましい判断があったのです。
最近はクルーズ客船が急激に増えている事もあり、マイアミを中心として、多くの契約歌手とか踊り子をそろえ外注専門のプロダクションショー会社が、取り仕切ってい るケースが多いのです。
ラスベガスとの提携で、大掛りなプロダクッションショーも増えています。
一つのショーに要する費用は、オリジナル作品の場合、著作権・制作費・衣装代などを含めて約2億円の予算が必要でした。
特にコンピュータ仕掛けの制作には、かなりのハイテク設備を投入 する事となる。また、コスチュームのデザイ ンも振り付師や衣裳デザイナーの重要な仕事でした。
衣装デザイナーは、ロサンゼルスでの映画や舞台の専門デザイナー会社と提携し、デザイン自体の素描から繊維素材の選別などもふくめ、振り付師との協業が基本となっているのです。
衣装は、観客か らの視覚的のみならず機能面においても着替えが簡単に出来るような特殊仕上げとなってい る。衣裳は見るだけにある訳ではなく、演技者にとって使い勝手がよいものでなければならない。 頭に乗せるカツラが重すぎないか、踊っている最中に落ちはしないか、カツラを支える紐が歌手の 首を締め付けていないか等にも十分な配慮が必要だ。
素材も高級繊維を多量に使っていることもあり、例えばスパンコールを使った 1 着百万円以上の 衣裳もありました。
衣裳の発注先も、アメリカで作ったり、あるいは中国に発注したりと多岐に渡りました。
これがダンサー分必要になるわけで当然衣裳コストが掛かる。通常 1 ステージ、5〜6 シーン位の情景 が出るがこれらの舞台装置も馬鹿にならないのです。
コスチューム・チェンジも、時には、一度のショーで 13〜15 回もありブロードウェイ的ショー、 バックステージでは3人の着替えのフィリピン人ドレッサーが必要となる。
クリスタル・ クルーズのコール・ポーターショーでは、続けて約 7 分間も歌い踊り続けるシーンがあるが、次の シーンに移るときの息づかいのコントロールにも細心の注意を払います。
踊りの種類もかな りのバラエティに富み、したがって幼いころからのバレー等の基本が必須である。歌手やダンサー の船上生活は華やかそうに見えるが、実はかなり過激な仕事で、ショーのあるときは、必ずリハー サルがあり、ショー自体は 45〜60 分の出し物が続けて 2 回あるプロードウェイやラスベガスでは、 曲目はいつも同じで良いが、クルーズ客船では、クルーズ船客が、毎日変わるわけではないので、 そのレパトリーは、クルーズで 200 曲 以上にもなる。それ加えてダンスも出来なければならないのです。
歌の方もかなりの広いレパトリーの曲目をこなし、一回45分の舞台で約25〜30曲、クリスタル・ クルーズのロックンロールのショーでは合計 120 曲もの歌を歌い踊るのです。
本来の歌や踊りの仕事以外 に、通常は船客の乗下船時の受け付けをしたり、本船来訪者のエスコートをしたりもする。彼らが個室でゆっくり骨休めが出来るスペースが欲しいと言う要望が多数あったのです。
クリスタル・クルーズのショーは、就航後極めて好評で、ゲストのスタンディングオベーションやパフォーミングアー トの雑誌や旅行業界紙等での高い評価が得られれば、出演者自身の勲章となるのです。これが彼らの次のブロードウェイやラスベガス等へのキャリアパスとなるのです。
多国籍従業員(乗組員)雇い入れ会社 ICMA 設立
ヨーロッパを中心とした上級幹部船員/従業員(乗組員)雇用システムの構築に 関連、新会社の船員の採用を、自由で柔軟に運用するために、長所の多い便宜置籍船制度を採用する事で決 めていました。
船上における上級幹部船員やホテル部門のクルーの採用を柔軟に実現する事で、 彼らの国民性を最大限に生かしながら、船上における運航・滞在環境を創る事に決めていた運航部門では、日本人幹部船員が加わる。このヨーロッパ人の体制を、フィリピン人船員や従業員の採用で下支えする体制を基本としていたのです。
ヨーロッパを中心とする多国籍従業員(乗組員)の採用が本格化しだしたこともあり、クリスタ ル・クルーズとしての雇い入れ会社が必要になった。幹部船員やホテル部門の従業員の採用が始まる前に、その雇用関係に対するリクルート・雇用契約・ 送り込みなどの手配が必要になるが、この 一連の作業をオスロとマニラに、それぞれ会社を設立し、そこで一元的に処理する方法を編み出した。日本郵船は、(1) ヨーロッパなどのクルー採用の為に、ノルウェーのオスロに設置する
(2) フィ リピン人従業員(乗組員)の為の雇用・管理事務所を、マニラに開設するという案 が作られたのです。
雇用専門会社 ICMA(International Cruise Management Agency 資本金 45,500 ドル)をノルウェー・オスロに設立。同社が、ヨーロッパ系幹部・上級船員とホテル部門の従業員などの雇用の受け皿となったのです。
一方、雇用人数としては、圧倒的な数を採用しなければならないフィリピンクルー に関しては、フィリピンの合弁会社を通しての採用となった。1990 年初めからスタートしたクリスタル・ハーモニーのクルー雇用に 関しては、ここを通して対応しました。
ICMA に関して言えば、雇用問題には、ITF(国際運輸労連)対策が重要であり、そのために、この雇 用事情を熟知している経験者が重要との判断が働いたのです。
ロイヤル・バイキング社から、ノルウェー 人スベン・ピターセンを引き抜く事とした。同じノルウェーの業界人としてクリスタル・クルーズ の副社長フライデンバーグや、当時のプロジェクト担当者とも旧知で、この分野では管理能力を 高く買われていたのです。
面接の時、”将来性のあるクリスタル・クルーズに賭けたいと言っていたました。クリスタル・クルーズのプロジェクトの姿が具体化した頃、仮想競争相手と考えていたロイヤル・バイキング社は、将来の展望が描けず、アメリカの旅行代理店網からも、見放されつつあり、経営的に混乱していた状況でした。
ロイヤル・バイキング社の事情 に精通している彼のこのコメントは、これから立ち上げるクリスタル・クルーズに対する彼らが見 る競争相手としてのイメー ジを測ることが出来、幹部船員や従業員の中に、クリスタル・クルー ズで働いてみたいと言う将来の移籍候補者がいることを示唆していると思ったのです。
船籍などに関して、後の 1989 年 10 月、バハマに「クリスタルシップ・バハマ」が設立さ れる。これを機に「クリスタル・ハーモニー」の船籍もバハマで登録されたのです。
バハマに現地法人が設立されたことは、税制のメリット以外に、40カ国におよぶ国際船員や従業員の雇用を可能にする大きな意味があったのです。
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